(ただいま、休止しています)ギーグ
最終更新:2018/11/2
作品紹介
ゴブリンである『彼』は、同胞たちが行商の人間たちを襲ったその時、金髪の女、『彼』の光陽、その命が脅かされつつあることを知る。 『彼』は彼女を救うために、同胞たちを裏切ることを決意した。 そして、行商を襲ったゴブリンを追ってきた捜索隊の男たちへの接触を試みる。 捜索隊の男たちは、片言の人語で助力を求めるゴブリンを訝しみつつも、対価として『彼』にひとつの条件を突きつけた。 『彼』は、その条件を受け入れた。願いがあった。 ――俺は、ゴブリンではない何かに、なりたい。 それはいずれ来たる跳躍、その助走の始まりであった。
評価・レビュー
彼は一匹のゴブリンだ。一人と呼ぶには、まだ、足りない。
恐るべき作品である。 主人公の「ギーグ」――彼の事を、一匹と表記すべきか一人と表記すべきか、少々逡巡したが、この場では一匹と表すに留めておく。私が読んでいる物語の現時点(11話)で、ギーグは未だ己を人と認めていないからだ。 この物語は、英雄豪傑の物語ではない。ただ一匹のゴブリンが、人であることを目指して足掻く物語だ。彼が人を目指す道程の足元に広がる、土や泥を丹念に丹念に描いていく物語だ。 多くのファンタジー作品で、十把一絡の雑魚として扱われる魔物、ゴブリン。この物語の主人公であるギーグも、世界の趨勢には何の影響も与えない、ただ一匹の雑魚だ。そのゴブリンが、己を人たらしめようと足掻いていく。 『ギーグ』という、ただ主人公の名前を記したのみの直球の題名も実に良い。竹で割ったような潔さがあり、この作品を象徴しているようだ。 人を目指して足掻いていくギーグ――だが、彼は、本当に人とは何かを理解しているのだろうか? 作中では、未だ彼の人間観の全ては開示されていない。彼が人間をどのように理解し、どのような存在へと変わっていくのか。私には、それが楽しみでならない。 物語は極めて高い文章力で綴られ、ギーグが蹲う土の香、受けた暴力の痛み迄伝わるような作風だ。勇者や英雄の冒険譚に飽きた貴方。ただ一匹のゴブリンの足跡を辿ってみるのは如何だろうか?
竹尾練治
一匹のゴブリンが、一人のゴブリンになる物語
まず、この作品の素晴らしい点として、神々の凋落という文明の発達とともに発生した問題と、近年の過度なゴブリンへの憎悪的思想を織り交ぜつつ、今の社会にも通じるような物語へと昇華させているのである。 個人的に現状のゴブリンを性犯罪のメタファーとして扱う姿勢は、アメリカ社会が抱える「奇妙な果実」と映画における「白人女性ばかりを狙う怪物」を日本でも(そうとは知られずに)伝播してしまったことによるものだと考えられる。そのため、安易なそのような描写の作品は苦手であった。 しかし、この作品はそうではない。凋落し、人間の負の面を一身に背負い、世に蔓延る悪の化身となったゴブリン 。その中でもギーグはゴブリン 社会、そして自分自身について深く考えていくようになる。常識を疑い、自分と向き合う姿勢は現代人よりも遥かに人間らしい。 それから彼は、負の面しか持たなかったゴブリンのもとを離れ、人間たちと行動する中で人間の善や悪、美や醜、秩序と混沌といった矛盾する性質を知るようになる。人間は善なるものだから素晴らしいという(カルトめいた)人間至上主義ではなく、矛盾する性質を持つから素晴らしいというギーグの考えには脱帽だった。 彼が一匹のゴブリンから、一人のゴブリンになるまでを見届けたい。そう思える作品だった。
鯨ヶ岬勇士