〈その男はついに妻のことを忘れた。〉
そんな冒頭の一文にはドライさがあり、どきり、とする。思えば記憶というのは不思議なものだ。絶対に忘れないと頑なに信じた記憶は意外にも簡単に消えてしまうし、あるいはどうでもいい、と片隅に追いやっていた記憶がふいによみがえることもある。記憶という概念は恐ろしく曖昧だが、多くのひとにとって何よりも大切なものになっている。だからこそ〈記憶〉というテーマが扱われた物語は、多くのひとの心を惹き付けるのかもしれない。
……ということで、本作も同様に、記憶を失いつつある画家の男を描いた掌編です。これだけ短いと内容に踏み込まずに感想を書くのが難しいので、ネタバレフィルタを付けましたが、味わいのある文章の読み心地の良さだけでなく、構成のうまさが印象的な作品でもあるので、ぜひ作品のほうを先に読んでもらえたら嬉しいです。
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この作品には、〈絵画〉と〈手紙〉が重要な要素として登場します。〈手紙〉は本心を自らの口からは明かさなかった男の本心を知る手がかりとして、〈絵画〉はかつてそうではなかったけれど、彼にとってはある時期からもうひとつの意味を持ちだすようになります。
心も記憶も失われていくのは怖い。それでもそこに確かなものを残すために、何かを残していく。男はその記録として、自身の職業として描いてきた〈絵画〉を選ぶ。
読み終えた時、
〈あれは春のことでした。画家が集まるパーティに参加した次の日から、夫は今までの抽象画とは全く別のものを描くようになりました。それは風景であったり、人物であったり、まるで日常を切り取ったような絵を描き始めたのです。〉
という道を選んだ男の気持ちを想像しながら、苦くも、切なく、静謐な余韻が残りました。
登録:2021/11/14 02:05
更新:2021/11/14 02:04