日本人の少年と、異世界人の少女。互いに別の世界の人間だと気づかぬままに、遊び友達として重ねる交流。 恋愛というにはまだ拙い、保護欲をくすぐられる純粋な好意。甘い男女交際が砂糖菓子ならば、この二人の関係はふわふわとした綿あめ。これが癒し。圧倒的、癒し。 色々と大変な世の中ですから、たまにはのんびり優しい世界に浸ってみるのはいかがでしょうか?
夜空、星空といえば、とにかく私は宮沢賢治の作品に描かれる黒か濃紺のイメージを持っているのだけれど、「星集めの絵」がそういう背景だと描写されていて妙に納得してしまった。 だが同じ心象映像を想起させるのに、宮沢賢治と夏木さんでは作品から受けるイメージが大きく違う。前者はいつまで経っても夜のままでひんやりとした世界であり、夏木さんの作品はラストで陽の光の眩しさ、温かさの中へと場面転換していくからだ。 たしかに「星集めの絵」では人の死、という究極的に暗いテーマは取り上げられていない。だが主人公が役立たずな魔法しか持っていないことや、その能力ゆえに両親を苦しめてしまったトラウマ、ステラが間もなく失明するであろうことなど、十分に暗くて重いテーマを内包している。 宮澤賢治の作品の多く、たとえば「銀河鉄道の夜」は確かにハッピーエンドではないものの、救済がないとは言い切れないだろう。「よだかの星」や「雁の童子」は同様に夜空を想起させる作品であり死が結末だが、そこが終わりではなく、死んだ後にこそ救済がある……と読み取ることもできる。 では何がそんなに違うのか? といえば、パートナーの存在ではないか、と私は思う。 どちらも孤独だった主人公とステラ、使い途のない魔力の持ち主と、生まれ持った素晴らしい魔法の力を間も無く使えなくなってしまう女性とが出会う。それは雇用主とアルバイトの関係から始まり、主人公の願いが「ステラの願いを叶えたい」という方向へ傾くことをきっかけに同じ一つの願いとなり、互いが互いを救済し合う関係になっていく。主人公は視力を共有させること、ステラは彼の能力にも使い途があると可能性を提示することで。 世の中には慈善を為すこと、恵み与えることが至高の徳で、それを幸せと感じる尊い心の持ち主もいるだろう。だが主人公たちの見つけた幸せは与えることよりも、相手に求めること、ではなかっただろうか。 お互いが相手に求めれば、お互いが相手に「求められている」ことになる。求められもせずに与えるよりも、求められて与えることの方がより幸せである、そう感じるのは私だけではないと思うのだ。 アルバート青年が、彼女の求めに懸命に応えようとしたように。 この作品は、場面ごとの明るさや天候が効果的に演出されている。未読の方はぜひ、読んでいただきたい。 はやくもよいち
冒頭から、詩愛(しいら)はひとりでいる。 彼女の隣、もしくは向かいに座るはずの浅黄(あさぎ)は思い出の中にしかいない。待っている彼女の立場で言えば、そこに誰も立ち入れない大きな空白だけを残して逃走中なのだ。 出会った時のエピソードや、成功していく過程、彼の失踪など、ラジオの進行に沿う形で、詩愛の回想が差し挟まれる。その中で、浅黄は天才であるが故に、自分の思い通りではない環境の変化に対応することが出来ず、潜水艦を降りたことが語られる。 だがシーラカンスはひとり、耐えて待った。耐えられることが彼女の強さであり、待っていられることが彼女の愛の大きさを伝えてくれる。 この話をキリストが語った「放蕩息子」のたとえ話と重ねるのは、いささかうがち過ぎかもしれない。だが失踪(=放蕩)の末の悔い改めと、迎え入れる側の愛と赦しの大きさは、やはり多くの共通点があるように思う。 私は最初、浅黄は心が弱く、詩愛の脇に空白だけを置いて逃げ出した無責任な男と感じた。だが彼は、ただ弱いだけの人物ではなかったのだ。 もしかすると彼は、詩愛の抱く愛の大きさが見えなかっただけかもしれない。失踪中、彼自身も空白を連れ歩いて、やっと置いてきたものの尊さに気づいたということはありうる話だ。 遠く離れて時間を置いて、それでも彼女が待っていると知り、浅黄は心を決めて戻ってきたのではないか。ぽっかり空いた空白を彼自身と、彼の持つ愛情で埋めるために。 イエロー・サブマリンは再び走り出す。その行く手には祝福が待っているだろう。空白に注ぎ込んでいた愛情を、これからはお互い相手に向けることが出来るのだから。