表面的には、小汚いおっさんにナンパされた男子高専生が、その体験を思いを寄せてくる妻子持ちの中途半端な関係の男性に喋ってしまう話。
この話、アンダーグラウンドを切り口に読むことはできて、講評を書くんだったらそうするべきなのかもしれないですが、あまりそうしたくないなと思うのです。もちろんそういう読み方を否定するつもりは無いですし、読み方は沢山あっていいと思いますが、この作品に関してはお題にきれいに収束していかないところを大事にしたい気分です。
まず作品を読む前に、タグの連なりを見て”私小説”の3文字に少しく動揺しました。私小説だからと言って、別に作者の経験をそのまま書いているとは限らないですけど。キャプションには”私小説風”とさらにぼかして書いてありますし。そうして動揺していると、「前置き、あるいは言い訳」でこれ以上ないくらい美しいかたちで釘を刺される。本文でも、”その先の記憶といまいち噛み合わないから”など、「信頼できない語り手」感が出ている。それを見て、私小説の設定としてなんて上手いんだろうと感嘆しました。うん、多分この感覚は感嘆です。
少なくとも現代の商業小説の世界だと、私小説って必ずしも歓迎されない(らしい)のですよね。結局私小説は「Look at me」の連なりに陥りがちなので、それに食傷されやすい。でもこの小説の場合、その「Look at me」がすごく希薄というか、作者の自己愛が透けて見えないんです。私小説を書いたことがある身としては、すごいなと思いつつ心の痛い部分でした。
「草食アングラ森小説賞」の講評で、謎のイートハーブさんが「いつものイサキさんじゃない」とメモしたと仰って、謎の白猫さんが”明らかにテンポが違う”と書いてらっしゃるのですが、私もいつもとは違うなと思いました。『ファイナル・デッド山本ピュアブラック純米吟醸』、『アリス・イン・ザ・金閣炎上』、『理解のある彼くん vs おもしれー女 ニュートン無様敗北編』のような強烈な推進力のある作品とは異なっているように感じます。それで、何か考えているうちに、初読では”余剰”かなと。”余剰”ではあっても、決して”余計”ではないのですが、話を一つの方向にストレートに推進させていくのではないものが散りばめられているように見えたのです。2回読むと、「ああこれは必要だったな」と初読ほど余剰を感じなかったのですが。とはいえ、物語の、或いは読者の要請を超えて語り手にとって大事な要素に満ちているのが私小説らしさだなという感想を持ちました。
冷静に考えてみると、そんな事実は全く無いにも関わらず、「あるある」と思わせられてしまうあたり、私が読んだ限りの和田島さんらしさを感じるところでした。Mさんの話とか。そっちに踏み込むと自分語りをしてしまいそうなので控えますが。単に構造やテーマの分析をすると、大事なニュアンスを取りこぼしてしまいかねない作品。昨晩講評書けなかったので寝たら、夢で講評書いてました。こんなに講評を書くのが難しい作品は初めてですよ。でも、読めてよかったです。和田島さんの作品の中で一番好きかも。
登録:2021/10/5 17:39
更新:2021/10/5 17:38