鵺 (第八稿)
最終更新:2020/6/7
作品紹介
禅僧の悟省は絵が得意である。天狗になる悟省に禅師は修行として鵺(ぬえ)という化け物を描くように言いつける。次第に絵にのめり込み、鵺に魅入られていく悟省に狂気が忍びよりはじめる。悟省にとって上達とはなにか。真に書きたいものはなんであったか。悟りとはなにか?
評価・レビュー
禅とは
鵺という妖怪は見る人により形を変えるというのはわりと有名になってきた伝説なのかなと思いますが、なるほど。 私はこの物語を読みながら「即身成仏」という教えがぱんっと頭に思い浮かんだ。これもさぞ気が狂いそうになるのではないかと私は思っている。 禅の問答とは、という点と、敵対する「妖怪」という概念の絡め方が非常に秀逸。読んですぐ「なるほど」と一人で呟いてしまった。 頗る上手い。第八稿ということですが果敢に挑戦されたのですね。確かにそうだ、禅問答のような。あれには答えなど実質無い、だから「無」であり(気になった方は般若心経をついでに読解していただければ)返答はやはり自分に戻ってくる、これを坊主は「悟」と呼ぶのだろうとして……いやぁ、語るのは野暮だ。是非読み解いて頂きたいところです。 文体的にはどうだろう「ハードボイルド文体」に分類されるのかな(ちょっと純文好きでないとピンと来ないかしら。かっこいいおじさんが~ていうあれじゃないです。説明難しいのでググってください)。なので、淡と読みやすいです。だからこその深みを生む文体の使い方。本当に上手い。 純文学好きな方は是非。短編ですが読みごたえありです。
詩木燕二
答えは自分の中にある。
【物語は】 ある若い層が、自由闊達に描いた絵を高値で買う者が現れたことにより、天狗になり堕落し、禅師に悟省と改名するように言われるところから展開されていく。この物語で重要なのは”顧みる”ではなく”省みる”というところにあり、二つの違いは”顧みる”とは思いめぐらすなどどちらかと言うと、回想などの記憶に対しての意味合いがあるものであり、それに対して”省みる”とは、自分自身と向き合い、己の行いを振り返る、反省するなどの意味合いを持つものだと思われる。すなわち”省みる”ところから”悟”までが描かれているのではないかと解釈した。 【物語の魅力】 物語に惹きこんでいく文体、表現、言葉選び展開、構成に至るまで、拘り抜かれているのは一目瞭然である。もちろんそれらが巧みであることも素晴らしいが、一番の魅力は物語自体にあり、主人公を通して読者が悟りを開くことにあると思われる。この語りでは”本物の鵺”を描いてみろという、無理難題を言い渡される。鵺とは妖怪であり、実際に見ることは出来ないが”本物”とは実際のものを描けという事を言っているわけではない。では鵺は何を象徴しているのか?それは『得体の知れないもの』であり、『恐怖』を指しているのではないかと思う。したがって”本物の鵺”とは、自分なりの答えを見つけろという意味なのではないだろうか? 【禅師と悟省】 禅師が悟省を通し見たかったものと、悟省が導いた答えは必ずしも一致しないのではないかと思う。悟省は原点(母との記憶)に帰ることで、悟りを開いていく。その過程には、鵺とは何かを追い続け”これだ”というものが見つからないという答えに辿り着いている。禅師は兄に似た悟省に、兄が何だったのか答えを見つけてくれるのではないか、と期待を寄せていた。 鵺とは己自身であり、己と向き合うことにより悟りは開かれるという作者からの、メッセージなのではないかと想像する。とても深い物語であり、様々なことを考えさせられました。この答えもまた、合ってはいないのかも知れません。
crazy's7