芥川龍之介は「将来へのぼんやりとした不安」という言葉を遺したそうな。
虚無というものの行き先を考えることがある。人は血生臭いと捉えるのか血潮に充ちていると捉えるのか(ちなみに食べると酸っぱいらしいと言うのは昔から聞く話)、という話ですが意味合いは同じようだが恐らく我々は真逆、対照的な意味合いで頭の中の辞書を引くのではないか、と思う。だが本当にその引用はイコールなのだろうか、=は眺めれば平行線じゃなかろうか。
それが交じる線は≠…あらあら、意味合いが違うな。
不純と純粋は果たしてどう違うのだろう。誰もが一瞬にして「完全に相反してる、対照的だ」というのかも知れない、一瞬は。なんせ「不」は打ち消し要素だ、しかし誰も「不」を悪いとは言わない。
その答えは多分、一生出てこず、お遍路巡りよろしく錫杖が立てられ骨皮になったのが見つかるのか、それとも同じ骨皮でも別の見付かり方をするのだろうか。先が見えない。その巡りを裁断するフィクション。まるで刺繍糸のようじゃないか?
青春、人生とは、なんだろう。
やがてを考えたとき、貴方は一体どこにいるのか。骨と皮に血生臭さを感じるか、血潮に満ちたと考えるか。
登録:2021/7/19 06:47
更新:2021/8/15 02:50