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作:五水井ラグ

ストロベリーポップキャンディー。

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未評価

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最終更新:2016/4/15

作品紹介

「友だちになって下さい、……嘘でいいから」  たいして話したことがなかったクラスの女子との、とある夏。        ◆ 2014年8月31日、執筆。 2015年12月17日、加筆修正。 2016年6月30日、エブリスタ「みんなで作ったどんでん返し特集」掲載。 2017年8月、エブリスタ妄想コンテスト佳作。

現代高校生短編ライトノベル友情純文学毒親詩的

評価・レビュー

ヒリヒリする。胸の底を掻き毟られる。なのに読まずにいられない。

 嵐の中、雨に濡れて学校へ到着した高校生ハル(五十嵐晴)に、突然話しかけてきたクラスメイトの少女(十時楓)。  今まで接点もなくハルに注意を向けてくることもなかったはずの彼女は、彼に友だちになって欲しいという。  けれどハルはすげなく拒絶する。彼女に、「嘘つき」と言葉を投げつけて。  ハルの強い拒絶の底にあるもの。「風と木って、似てるよね?」という、十時楓の奇妙な言葉の意味。その二つがわかった時、物語は読者であるこちらへ、長く引き攣れた痛みの、爪痕を残していく。  巧みな構成と譬喩による暗示を駆使して書かれたこの物語は、流し読みではその真の味わいはわからない。ぜひ読みこんでみてほしい作品。

5.0

wakagi

あの時二人が辿り着いた景色

どう講評を書いたものか戸惑っています。凄まじい出来の作品でした。“僕”とある瞬間を除いて嘘の仮面を被っていたクラスメイトの物語。  最初のひとかたまり。文章の意味を掴みかねて、けれどもこれは失敗してそうなっているのではなく、意図的なコントロールされたものだなと感じて、どうもすごいものを読んでいるんじゃないかという予感がひしひしとしました。  土砂降りの外とクーラーの効いた教室、或いは静かな図書館。嵐の下とそうでない場所。舞台設定的にも対照的で、だからこそ両者で展開される場面が際立っています。 「ふう」という嘘の仮面を被り続ける十時楓を“僕”こと五十嵐晴は「とときかえで」としか見ない。その“僕”のスタンスは“僕”と仮面を被った母親との葛藤から来るものだととれます。タイプは違うけれども同じく呪いを孕んだ親を持つ楓と“僕”は対照的な道を歩みつつ、けれど根本のところで“ほんとう”に対する「切なさ」にも似た感情は共有しているように見えました。  楓が「ふう」として父親に何を求められていたかを考えると重苦しい気分になります。「――風と木って、似てるよね?」という言葉も読んでいてつらいです。「もっと愛してもらいたいなぁ」と言っているあたり、必ずしも嫌々ではないように見えますが、でもやっぱり彼女は泣いてしまう。嘘でいいからと、とときかえでとして友だちになってと頼む。それに対して“僕”は――。入り交じる嘘とほんとうが、そして青春のひと時を本当に刹那共に過ごした二人の在り方が複雑であり、心をかき乱されるものでした。  冒頭の“黒っぽい空と海の境界線が曖昧になっていってすっかり同化してしまっている”のとは対照的な最後の“空と海の境界が分からないほど鮮やかな青”。あの時見えた景色。楓はああいうことになるのに、この瞬間を切り取った最後は二人が行き着いた先を示していて爽やかで、すごい終わらせ方だなと思いました。  これは講評ではなく感想ですね。読めて本当によかったです。

5.0

辰井圭斗

つくりものの先に言葉を宿して。

〈『もしあなたが人を憎むなら、あなたは、あなた自身の一部でもある彼の中の何かを憎んでいるのだ。我々自身の一部でないようなものは、我々の心をかき乱さない』〉  暑さと湿気にうんざりする土砂降りの日、五十嵐晴こと〈僕〉は同じクラスになっても一度も話したことのなかった十時楓から声を掛けられ、無性に怒りが込み上げる。いつもと変わらない日常は、自らを〈ふう〉と名乗るクラスメートの言葉によって壊れて、そしてそれは件の女子高生が二日後にいなくなるなんて周囲は知る由もなかった日の出来事だった……、というのが、この作品の導入なのですが、物語の導入を説明することは、この小説の魅力、すくなくとも私が感じ取った美点を語るうえで、あまり意味を持たないような気がします(それは決してストーリーが良くない、という意ではないので誤解なきよう。構成の素晴らしさもあって、物語自体も強く惹き込まれるものだと思います)。  何よりもまず言葉の魅力があり、例えば、映画とか小説であらすじを聞いただけで内容を知った気になって、実際にその作品を鑑賞することはないまま、ってことありませんか? あんまり褒められた話ではないですが、私にはそういう経験があります。実際に触れてはじめて分かる面白さ、それがどれだけ不幸なことかを特に実感させてくれるの、ってたぶん小説ではこういう言葉の魅力に溢れた作品を読んだ時なんじゃないかな、と思います。  これは嘘の中から真実を探すために言葉を読む物語なのかもしれない、とそんな考えが、ふと頭に浮かびました。それは現実によりうまく似せている、とかもちろんそういう意味ではありません。  本心とは誰にもさらけ出さないからこそ、本心、と呼ばれるのであり、  読む側は言葉から言葉通りではない感情を、探し、見出し、想像していく。 〈ガリッ。噛み砕いたストロベリーポップキャンディーは狂おしいほどに甘ったるい嘘の味で、所詮これはつくりものの苺なのだとふと思い知った。〉  つくりものの先にある心を読み、見てくれではない本質を探し、  そして本質は、安価なポップキャンディも、名前の呼び方も、その意味を変えていく。  これは、小説、言葉でしか読めない感情の旅なのかもしれません。

5.0

サトウ・レン